Vol.8 イヌワシ: ヒナの兄弟闘争

生後約15日のヒナ。まだ母ワシの保温が必要だ。

三寒四温をくり返し、里はすっかり春めいてきた。イヌワシは約45日間の長い抱卵期間ののちにヒナが誕生した。

白いフワフワの綿毛に包まれたヒナは、猛禽の子供とは思えないくらいに弱々しい。母ワシから餌をもらうために頭を持ち上げ首を伸ばすが、まだフラフラとして安定しない。食事の時以外は母ワシの懐に潜り込んで暖まっている。イヌワシが棲む山岳地帯では、春とは言うもののまわりは残雪に覆われ、時には吹雪の日もあるのだ。小さなヒナには当分の間母ワシの保温が必要だ。

イヌワシは通常2個の卵を産み、2羽のヒナが誕生する。しかし、日本では2羽のヒナが共に育つことはほとんどあり得ない。生まれて間もないヒナ同士が、首も座らぬうちから争いを始めるのだ。3日ほど早く生まれて大きくなったヒナが、後から生まれた小さいヒナを嘴でつついて攻撃する。小さいヒナが頭を持ち上げると大きいヒナの攻撃が開始される。日毎に闘争は激しくなって、小さいヒナは頭を上げることさえできなくなる。母ワシは頭を上げてせがむヒナにしか餌を与えない。小さいヒナは飢えのために生まれて数日で死んでしまう。
僕たち人間には非常に残酷に映るが、厳しい環境の中で生き抜く自然の摂理なのだろう。ヒナ同士の闘争もなく2羽が生き延びたとしても、やがて2羽のヒナが成長し食欲おう盛になった時には餌が不足してしまうのだ。大きく強くなったヒナ同士の争いには危険が伴う。お互いが傷つき共倒れの危険さえある。

生き残った1羽のヒナは、獲物を独り占めして成長していくが、食欲がおう盛になるにつれて餌が不足する。巣の上に獲物がまったく無くなってしまうという事態が時々起こっている。ヒナが生後1ヶ月くらい経つと、ヒナを巣に残して母ワシも狩りに出かけるようになる。親ワシ2羽で懸命に獲物を探すが、そうたやすく獲物にありつくことはできない。

数日以上獲物が捕れないことも少なからずあるのだ。ヒナは空腹に耐えながら親の帰りを待っている。母ワシが時々様子を見に巣へ帰ってくるが獲物はない。飢えているのはヒナだけではない。母ワシもヒナ以上に飢えているのかもしれない。巣の上に獲物の残がいがないかどうか探している。母ワシが巣材のすき間から何かを引っ張り出したが、干からびた骨だった。ヒナに与えるものは何もない。母ワシは空腹に堪え兼ねてその干からびた骨を飲み込んだ。

こうした餌不足の危機はヒナが巣立つまでの間に何度か訪れる。2羽のヒナを育てることなどとてもできるものではない。十分な獲物を確保できる海外のイヌワシでは、2羽のヒナが共に巣立つ地域も多い。

日本のイヌワシは非常に厳しい生息状況に置かれている。繁殖成功率は年々低下し、1羽のヒナも育てられないペアも数多くいる。イヌワシの繁殖状況は、その地域の自然環境の豊かさを反映している。イヌワシの危機的な状況は、人間にとっても大切な自然環境の危機でもあるのだ。