雪解けの頃から木々が芽吹いて葉に覆われるまでの間が、1年のうちで最もツキノワグマを観察しやすい時期である。
早春の林床は見通しがよく、遠くからでもクマの行動が観察できる絶好の季節だ。冬眠から目覚めたばかりのクマが残雪の上を歩き、若葉が伸びはじめた草原で柔らかい草を食べ、木に登って新芽をむさぼる。
早春のある日、イヌワシの撮影のために沢沿いを歩いていた僕は、対岸にあるタムシバの木にクマが登っているのを発見した。クマとの距離は100mくらいであるが、クマは僕には全く気づいていない。丸々と太った大きなクマだ。しばらく行動を観察する。直径5cmほどもある枝にかみついて、ねじるようにして一気に折り取る。普通の人間では及びもつかない怪力だ。クマは枝に付いた花を盛んに食べている。30分ばかり食べ続けたあと、頭を上に向けてお尻からモゾモゾと不器用そうに幹を降り始めた。木登りは得意で細い枝先まで器用に登っていくが、降りるのだけはどうも苦手なようである。降りる姿を見ていると、木の下に行ってお尻をつついてみたくなってくる。そのくらい愛嬌たっぷりなパフォーマンスだ。
さらにクマは憎めない。降りる途中の枝が混みあったところで一休み、昼寝を始めたのだった。近づいて撮影したいところだが、昼寝の邪魔をせず今日のところは目的のイヌワシの撮影に向かうことにした。
翌日、昨日のクマを待ち伏せする。昨日登っていたタムシバには、もちろんもうクマの姿はない。近辺のクマが出てきそうな林の中で、息を潜めて待つこと4時間半。斜面の下の方からガサガサと音が聞こえてきた。音はだんだんと近づいてくる。
僕の目の前10mの薮から姿を現したのは、期待どおりツキノワグマだった。クマがそのまま前進すれば僕に突き当たってしまう。カメラを静かにクマの方へ向けながらも、クマとの間合いをはかる。これ以上近づくのはお互いに危険である。
一瞬緊張が走ったのを知ってか知らずかクマが方向を少し変えた。僕の目の前をクマがゆっくりと歩いていく。黒い毛皮がたゆんたゆんと揺れている。クマは、僕がいることに気づいてはいないが、時々立ち止まって後ろを振り返る。何となく気配を感じているのかもしれない。
クマは人間に危害を加える動物として恐れられている。クマも人間を恐れている。お互いが相手を恐れて、できるだけ接近しないように生活しているのだ。この絶妙なバランスでお互いがうまく共存してきた。しかし、近年では人里に出没するクマが目に付くようになった。
人間はクマが生活できる森を残すことを約束し、クマには人里でいたずらしないように約束を交わしたいものだ。かつては暗黙のうちにこのような「約束」ができ上がっていたのではないだろうか。