Vol.14 イヌワシ:ライバルはクマタカ

イヌワシの強力なライバル

日本の山地に生息するワシタカ類の中で、イヌワシは最も大きくて力強い。

イヌワシの天敵といえる動物はほとんどいない。イヌワシに天敵がいるとしたらそれは人間であるかもしれない。人間がイヌワシを捕まえて殺してしまうというケースは少ないが、人間活動の増大とともにイヌワシは生息場所を追われつつある。

イヌワシには、天敵ではないが強力なライバルがいる。イヌワシと同じ山地に生息するクマタカである。体のサイズはイヌワシよりひとまわり小さい。小さいとはいえ、体長は70〜80cmとイヌワシに次ぐ大型のワシタカ類だ。

両種ともにノウサギやテン・ヤマドリ・ヘビなどを捕食する。獲物が競合するためと思われるが、イヌワシはクマタカを見つけると、すかさず攻撃をかけて追い払う。

ある晴れた日、クマタカはゆったりと帆翔し空高く舞っていた。急に翼をすぼめて急降下を開始し、慌てて林の中へと消えていった。すかさずイヌワシが現れ、クマタカが消えた林の上を低く飛び回ってクマタカを探した。

またあるときには、イヌワシの営巣地の近くを通りかかったクマタカに対して、上空から弾丸のように急降下して攻撃した。イヌワシの攻撃に気づいたクマタカは、一目散に林の中へ逃げ込んだ。

イヌワシの攻撃を避けられずに、2羽がもつれ合うように林の中へ落下していったことがあった。林の中からすぐに出てきたのはイヌワシだった。一方、クマタカは出てくるのを確認できなかった。得意の林内飛行で移動して行ったのかもしれない。けがをしていなければいいのだが…。

両種の出会いはいつも、少し体の大きいイヌワシが優勢である。翼が短く林の中を上手に飛行するクマタカは、林の中に入ることでイヌワシの攻撃をかわしている。

イヌワシが生息する場所では、クマタカは長時間帆翔したり、高く舞い上がったりするような目立つ行動をあまりしない。イヌワシとの干渉をできるだけ少なくしているようだ。イヌワシが頻繁に出現する場所では、クマタカが生息しているにもかかわらず、その姿を見ることは少ない。

数年前までイヌワシが生息していた場所では、以前はクマタカはほとんど姿を見せず、時折ちらりと姿を見せる程度であったが、イヌワシが姿を消してまもなく、クマタカが悠々と舞い、ハンティングする姿が頻繁に見られるようになった。クマタカは、イヌワシとまともに出くわすことがないように行動を調整していたのだ。

両種は同一地域に暮らしながら、クマタカが林内、イヌワシが開けた場所を主なハンティングエリアとして棲み分けている。

Vol.13 イヌワシ:生息環境の変化

獲物を探して地上近くを飛行する

イヌワシは、1ペアが約100平方キロメートルの行動圏を持っている。

僕が住んでいる伊吹町の面積が109.17平方キロメートルで、ちょうど町内のほぼ全域を行動圏にもつイヌワシが1ペア生息している。イヌワシが1ペアしか住めないところに人間は6000人余りが暮らしている。なんとイヌワシの3000倍以上の密度である。イヌワシは、非常に生息数が少ない動物なのだ。イヌワシの生息数は、日本全国でも数百ペアと推測されている。

イヌワシの生息密度を決定づけている最も重要な要素は、食料となる獲物の生息密度であろう。ノウサギやテン、ヤマドリ、夏期にはヘビなど、生きた動物が主な獲物となる。これらの中型の野生動物がたくさん生息することで、獲物を見つける頻度が増え、狩りをするチャンスが増える。獲物が多ければ広い行動圏を持たなくても十分に生活していけるのだ。

ノウサギやヤマドリの生息数はこの20〜30年非常に少なくなっていると感じられる。僕が山の中を歩き回っても、ノウサギに出くわすことは年に数回程度しかない。お年寄りに聞くと、昔はノウサギは山だけでなく、集落や田畑にまでたくさんいたらしい。近年では集落周辺に足跡や糞はほとんどなく、山でさえも多くは見かけない。東北地方の白神山地の林道を車で走ったことがあるが、1時間に20頭ほどのノウサギが車の前に飛びだしてきた。その頃イヌワシの繁殖成功率が高かった(現在では繁殖成功率は低下している)東北地方では、ノウサギはまだたくさんいたようである。西日本では林道を走ってもノウサギの姿を見ることは珍しい。また、野外でイヌワシを観察していると、獲物を見つけることがいかに大変なことであるかがわかる。

イヌワシは、斜面を吹き上げる風を利用してホバーリング(空中停止飛行)で地上の獲物を探したり、地上スレスレに降下して繁みに隠れている獲物を追いだす行動をしたりと、必死にハンティング行動をくり返す。

1日中目まぐるしくハンティング行動をくり返しても獲物にありつけない。あくる日も朝から盛んにハンティング行動をくり返す。涙ぐましい努力にもかかわらず、ノウサギ1匹出てこないのだ。獲物となる動物が減っている。 抱卵中の雌には雄が獲物を捕えて運んでくる。しかし、雄が獲物を捕獲できないために、雌が空腹に耐えかねて抱卵を中止する繁殖失敗例が何度かあった。生まれたヒナが餓死する例も見受けられる。

獲物の減少はイヌワシにとって致命的だ。さらに追い討ちをかけるのが狩り場の減少だ。近年はイヌワシの棲む奥山にまで開発が押し寄せている。手入れされないスギやヒノキの植林地は薮となって、体の大きいイヌワシは狩りのために飛び込むことができない。炭焼きやたきぎ取りで管理されていた二次林も近年は放置され、人間が歩くのも困難なほど薮化している。

イヌワシは、「獲物の減少」と「狩り場の減少」という二重の困難に直面している。このままではイヌワシに未来はない。
放置された二次林や植林地にもう一度人間が手を入れ管理することで、野生動物と人間が共に利用できる森を復活できないだろうか。僕が現在いちばんやりたい(やるべき)ことである。

Vol.12 イヌワシ:人口巣の設置(その3)

白斑が青空に映える若ワシ

晩秋から初冬、イヌワシの巣造りが次第に本格的になってきた。果たして、秋に造った人工巣を使用してくれるだろうか。

僕の心配をよそに、イヌワシはせっせと人工巣に巣材を積み上げていた。雄と雌が交互に巣材を巣へ搬入している。人工巣は、僕たちが造った時よりひとまわり大きくなって居心地が良さそうだ。イヌワシは、この人工巣を気に入ってくれたのだ。

オーバーハングした岩の下は、雪が積もらず快適そうだ。ツキノワグマの通路を封鎖しているので、繁殖を妨害するものはなくなった。今年の繁殖が楽しみだ。

2月には抱卵している姿を確認した。雄と雌が抱卵を交代する行動も観察できた。繁殖は順調に進んでいる。抱卵の大半は雌が行う。雌が食事や休息の時には、雄が抱卵を交代する。

雄が捕えて巣の近くまで運んできたノウサギやヤマドリなどが雌の食物となる。抱卵期間中の雄の獲物の供給量が、繁殖の成否に大きく関係している。雌は飲まず食わずで雄が獲物を持ち帰るのを待っている。雄が獲物を捕えることができなければ、雌は空腹に耐えかねて抱卵を続けることができなくなってしまう。3日以上も食物にありつけないことはたびたび起こっている。長期間獲物が無い状態が続くと、抱卵中あるいは育雛中の雌は明らかにイライラしているのが見て取れる。巣を離れる回数や時間が多くなる。さらに獲物が捕獲できない状態が続けば、繁殖を中断してしまうだろう。

抱卵中の雌に与える分の獲物が確保できない貧弱な自然環境であるならば、ヒナが孵化しても育てることなどとてもできないだろう。イヌワシたちはそのことを十分に心得ていて、ダメと分かれば無理をすることなく繁殖中断するのではないだろうか。無理をしすぎて体力を失い、今後の繁殖に影響するようならば、かえってマイナスになってしまう。早めに決断して、来年以降の繁殖にかけたほうが長い目で見ると得策だろう。

3月下旬、人工巣で抱卵を続けていたペアは、2羽が同時に巣から離れて飛び回っている。残念ながら今年は繁殖に失敗したようだ。イヌワシの繁殖成功率は近年異常に低くなっている。このペアも例に漏れず、10年以上は繁殖に成功していない。

ペアは翌年もこの人工巣に産卵したが卵は孵化せず、繁殖に失敗した。その後も毎年のように人工巣に産卵したがヒナは孵化しなかった。

人工巣に産卵を続けて6年目、ようやくヒナが誕生した。待ちに待ったヒナの誕生である。何としても元気に巣立ってほしい。はらはらしながら観察を続けた。ツキノワグマが巣に登ってくることもなく、ヒナは順調に育っている。このままいくと5月の下旬には巣立ちを迎えるだろう。

6月に入って巣から離れたところを元気に飛行する若ワシの姿を確認することができた。若ワシが翼と尾羽の白斑を輝かせて飛翔する姿は、何回見ても美しい。一見、悠々と飛行する若ワシだが、まだまだ経験不足である。木の枝に止まり損ねて林の中へ落ちる滑稽な姿を見せるのもこの時期である。

人工巣はがっちりとまだまだ頑丈で、ツキノワグマの侵入を食い止め、オーバーハングが雨や雪からヒナを守っている。

今後もこの巣から若ワシが巣立ち、僕を感動させ続けてくれることを願っている。

Vol.11 イヌワシ:人口巣の設置(その2)

ザイルに身をまかせ宙づりで作業をする

ツキノワグマに襲われたイヌワシの巣は、巣材の半分以上が掻き落とされていた。

絶壁から張り出した小さなかん木の根元に、直径60cm足らずのイヌワシのものとしてはかなり小さい巣がのっていた。通常のイヌワシの巣は、直径100〜150cmくらいの大きさである。もともと巣を造る場所としてはいいところではない。巣を支えているかん木も、クマによって折られている。

イヌワシの巣場所としては、雨や雪が当たらないように巣の上がオーバーハングしていて、巣の土台となる水平なテラスがある岩場がベストである。こうした条件のいい巣場所はなかなか無いものだ。この巣はオーバーハングがなく、雨や雪がまともにかかってしまう。

ザイルで絶壁を降下して巣まで降りてみて初めて、巣を支えているかん木がクマによって折られていること、かん木の根元は小さくてこれ以上巣を広げられないこと、オーバーハングが無いことなど、現在ある巣を補修するだけでは営巣地として不十分であることがわかった。

巣から約7m横の同じ岩壁にオーバーハングした場所がある。クマがイヌワシの巣へ登ってきたのも、このオーバーハングの下の割れ目を伝って来たのだ。この割れ目に大きな石を敷き詰めてクマの通り道を封鎖すると、うまい具合に巣をかけるテラスが出来上がる。オーバーハングと巣をかけるテラスのあるなかなかいい条件の営巣地になりそうだ。予定外ではあったが、イヌワシの巣を基礎から人工的に造ることになった。

人工的に巣を造るとひとことで言うと簡単そうであるが、そこは断崖絶壁、ザイルを頼りに宙づりでの作業である。また、イヌワシに完全な人工の巣を提供するという日本初の試みでもあるのだ。

作業は、イヌワシが営巣地にあまり関心を示さなくなる夏の終わりから秋にかけて行った。人間への警戒心が非常に強いイヌワシを刺激しないための最低限の配慮である。

作業には多くの人間が必要である。巣まで降下して作業する人2名。降下する人のサポート1〜2名。巣のある岩壁の下からのサポートと、テラスに敷き詰める石や巣の材料となる枯木を拾い集めて巣の位置まで引き上げる人2〜3名。1日に5〜7名ほどの人間が必要である。

この人工巣造りには、信頼できるイヌワシ仲間が集まった。皆それぞれ各地のフィールドで研究・保護に熱心に取り組んでいる仲間達だ。遠いところでは400kmもの道のりを車を運転してかけつけてくれたのだ。

早朝から登山し、岩場に張り付いて泥まみれになって夕方まで巣造り。夕方からは、沢へ下ってのんびりと疲れを癒しながらキャンプを楽しむ。

こうした毎日をくり返すこと10日間、のべ60人もの人間がかかわって、新しいイヌワシの巣が完成した。出来映えは上々。十分に満足のいく巣が完成した。あとはイヌワシのお気に召すかどうか。どんなふうに巣を仕上げるかはイヌワシしだい。冬から始まるイヌワシの巣造りで、さらに巣材を積み上げ、彼らの思い通りの巣を完成させてくれればそれでいいのだ。

Vol.10 イヌワシ:人口巣の設置(その1)

ヒナを食べた後、巣の上に居座り長い舌を出しているツキノワグマ。

イヌワシの繁殖成功率が低下していることはこれまでに何度か書いたが、1995年のあるペアの繁殖失敗は予想もしないものだった。

4月7日、久しぶりに繁殖に成功した巣では、生後1ヶ月近く経ったヒナが順調に育っていた。ヒナは、フワフワとした白い綿毛から黒い風切羽がわずかに伸び始めている。小さかったヒナはどっしりとしてたくましくなった。

母ワシは、ヒナを保温したり外敵から守るために、巣から遠くへ離れることはなかったが、ヒナが生後1ヶ月近くになったころから、だんだん遠くまで狩りに出かけるようになった。ヒナは綿毛に包まれているとはいえ、もうすでにチャボくらいの大きさになっている。カラスなどの外敵にやられる心配はほとんどないと思われた。

近年では繁殖に成功するペアが少なくなって、ヒナを育てるイヌワシを観察できる機会はめったに無くなってしまった。夕方までヒナを観察して山を下った。

翌朝、昨日と同じところから巣を観察。巣までは約500mの距離がある。望遠鏡で巣をのぞくと、昨日までとどこか様子が違う。巣材が巣の縁に盛り上がっている。ヒナが立ち上がれば見えるはずだが、なかなか姿を現さない。しばらく観察を続けていると、巣の上に何やら黒いものが動くのが見えてきた。母ワシが巣にいるのだろうか?目を凝らして見ていると、黒い物体は徐々に姿を現した。ツキノワグマだ。

昨日までイヌワシのヒナがいた巣の上に、今朝はツキノワグマが座っている。僕は、急いで山を登った。巣がのぞき込めるところまで到着したときには、すでにクマは巣にはいなかった。対岸の斜面をゆっくりと、大きな雄グマが歩いていくのが見えた。巣の中を確認するがヒナはいない。巣のある岩壁の下も探したが、ヒナの姿はなかった。ヒナはツキノワグマに食べられてしまったのだ。

冬眠明けのクマにとっては非常に貴重な栄養価の高い食事であったことは確かだろう。しかし、十数年繁殖に失敗していたペアが、ようやく繁殖に成功したというのに残念だ。よりによってイヌワシのヒナを食べなくても… 。

卵を産まない、あるいは卵を産んでも無精卵でヒナがふ化しないという繁殖失敗は数多く見ているが、ヒナが生後1ヶ月にもなってから死んでしまう例は非常に少ない。ましてやクマが断崖絶壁にある巣に登ってヒナを食べるとは想像もできなかった。

巣のまわりを調べた結果、人間が道具なしにこの巣へ近づくことはできないが、クマならばこの巣へ登れるコースがあることが分かった。巣材はかき落とされ、土台になっている木は折れかかっていた。クマには悪いが、巣へアプローチできる場所を封鎖し、壊された巣を補修することに決めた。イヌワシは、ヒナのいなくなった巣にしばらくは執着して巣材を運んだりするであろうから、秋には巣の補修ができるように準備をしよう。

来年こそは繁殖に成功して欲しい。クマがイヌワシのヒナ1羽を食べなくても命にかかわることはないだろうから、来年からクマには我慢してもらおう。

Vol.9 イヌワシ: 獲物

ニホンカモシカの死体を食べる

イヌワシが狩りの対象とする動物は多種類におよぶ。小さなものではネズミから大きなものはキツネやニホンカモシカの幼獣までも獲物として捕食する。

哺乳類ではノウサギ、鳥類ではヤマドリ、爬虫類ではアオダイショウが圧倒的に多い。その他には、テンやニホンイタチ・アナグマ・ニホンリス・タヌキ・キジ・キジバト・ハシボソガラス・ツグミ・カケス・シマヘビ・マムシなど20種類以上の動物が獲物となる。

爬虫類は冬眠するために冬期の獲物にはならないが、夏期の重要な獲物となっている。4月の下旬になると冬眠から覚めたヘビが姿を見せ始める。ヘビの出現と同時に、ノウサギやヤマドリが主体であった獲物が、一転してヘビに代わる。

葉が展葉して獲物が見つけにくくなるちょうどその時期に、個体数が多く捕まえやすいヘビが出現すると、5月以降の獲物は、ほとんどがヘビになる。しかし、ヘビが餌量に占める割合が高いペアほど、繁殖率が低くなる傾向があるように僕は感じている。繁殖状況の良いペアでは、夏期もノウサギやヤマドリを捕っている。

ノウサギやヤマドリが減少した影響で、これらに代わる獲物としてヘビの捕食率が高まっているのではないだろうか。

5月はニホンカモシカの出産の時期でもある。生まれて間もないカモシカの幼獣がイヌワシの獲物となることがある。母親のカモシカが子供のそばについていればイヌワシも襲うことはできないだろう。イヌワシはほんのわずかな隙を狙ってカモシカの子供を襲っているのではないだろうか。イヌワシが自分と同じかそれ以上もある大きさのカモシカの子供を足につかんで飛翔する姿を見たときには、そのずば抜けた飛翔力に驚くとともに感動した。上空から高度を下げながら滑翔し、ヒナの待つ巣へと運んでいった。

また、冬の積雪や凍結により、崖から足を滑らせて転落したカモシカの死体もイヌワシの餌となっている。大きな獲物はペアで何日もかけて食べる。しかし、この獲物を狙っているのはイヌワシだけではない。夜になるとキツネやテンなどがやって来て屍肉をあさる。イヌワシに残された量はそれほど多くはないのだ。

こうしたカモシカの死体を調べると、転落死したものばかりではなく、密猟されてその場で解体された残がいであることも少なくない。北海道でオオワシ・オジロワシが、銃弾で撃たれたエゾシカの死体を食べて鉛中毒を起こすことが問題になっているが、イヌワシでもその危険性が十分に考えられる。

イヌワシの繁殖成功率は年々低下している。獲物となる野生動物の生息数が少ないのだ。それをカバーするためにいろんな種類の動物を獲物とし、その時々で利用しやすい獲物をうまく利用しながらイヌワシは生きている。

Vol.8 イヌワシ: ヒナの兄弟闘争

生後約15日のヒナ。まだ母ワシの保温が必要だ。

三寒四温をくり返し、里はすっかり春めいてきた。イヌワシは約45日間の長い抱卵期間ののちにヒナが誕生した。

白いフワフワの綿毛に包まれたヒナは、猛禽の子供とは思えないくらいに弱々しい。母ワシから餌をもらうために頭を持ち上げ首を伸ばすが、まだフラフラとして安定しない。食事の時以外は母ワシの懐に潜り込んで暖まっている。イヌワシが棲む山岳地帯では、春とは言うもののまわりは残雪に覆われ、時には吹雪の日もあるのだ。小さなヒナには当分の間母ワシの保温が必要だ。

イヌワシは通常2個の卵を産み、2羽のヒナが誕生する。しかし、日本では2羽のヒナが共に育つことはほとんどあり得ない。生まれて間もないヒナ同士が、首も座らぬうちから争いを始めるのだ。3日ほど早く生まれて大きくなったヒナが、後から生まれた小さいヒナを嘴でつついて攻撃する。小さいヒナが頭を持ち上げると大きいヒナの攻撃が開始される。日毎に闘争は激しくなって、小さいヒナは頭を上げることさえできなくなる。母ワシは頭を上げてせがむヒナにしか餌を与えない。小さいヒナは飢えのために生まれて数日で死んでしまう。
僕たち人間には非常に残酷に映るが、厳しい環境の中で生き抜く自然の摂理なのだろう。ヒナ同士の闘争もなく2羽が生き延びたとしても、やがて2羽のヒナが成長し食欲おう盛になった時には餌が不足してしまうのだ。大きく強くなったヒナ同士の争いには危険が伴う。お互いが傷つき共倒れの危険さえある。

生き残った1羽のヒナは、獲物を独り占めして成長していくが、食欲がおう盛になるにつれて餌が不足する。巣の上に獲物がまったく無くなってしまうという事態が時々起こっている。ヒナが生後1ヶ月くらい経つと、ヒナを巣に残して母ワシも狩りに出かけるようになる。親ワシ2羽で懸命に獲物を探すが、そうたやすく獲物にありつくことはできない。

数日以上獲物が捕れないことも少なからずあるのだ。ヒナは空腹に耐えながら親の帰りを待っている。母ワシが時々様子を見に巣へ帰ってくるが獲物はない。飢えているのはヒナだけではない。母ワシもヒナ以上に飢えているのかもしれない。巣の上に獲物の残がいがないかどうか探している。母ワシが巣材のすき間から何かを引っ張り出したが、干からびた骨だった。ヒナに与えるものは何もない。母ワシは空腹に堪え兼ねてその干からびた骨を飲み込んだ。

こうした餌不足の危機はヒナが巣立つまでの間に何度か訪れる。2羽のヒナを育てることなどとてもできるものではない。十分な獲物を確保できる海外のイヌワシでは、2羽のヒナが共に巣立つ地域も多い。

日本のイヌワシは非常に厳しい生息状況に置かれている。繁殖成功率は年々低下し、1羽のヒナも育てられないペアも数多くいる。イヌワシの繁殖状況は、その地域の自然環境の豊かさを反映している。イヌワシの危機的な状況は、人間にとっても大切な自然環境の危機でもあるのだ。

Vol.7 イヌワシ: 厳冬期の産卵

嘴と脚に巣材を持って巣へ向かう

木枯らしが吹き、雪が降り積もるころ、イヌワシの巣造りは始まる。

雨や雪が当たらないように断崖絶壁のオーバーハングの下に、直径1.5mもある大きな巣を造る。昔話に伝わるイヌワシの巣が、現在も使用されている場所がある。イヌワシは、環境が大きく変わらなければ何十年何百年と同じ巣を使い続けるのだ。

古い巣材の上に毎年新しい巣材を積み重ねていくために、巣の厚みは1mを越える。大人2人が座ってもびくともしない。巣材は、木の枝を嘴や脚で折り取って集めてくる。直径が3〜4cmもある太い枝でさえ折ってしまうのだから大した力である。

嘴で枝をくわえて満身の力を込めて引きちぎる。太い枝は両足でつかみ、ひねるように飛び降りて折ってしまうのだ。そのまま飛び立ち、脚につかんで巣へ運ぶ。1.5m以上もある長い枝を運ぶ姿は、まるでほうきに乗った魔女のようである。

雄と雌は協力して巣材を運び、巣を整える。枝で形を整えた後、産座の部分にはマツやスギの青葉を敷き詰める。42〜45日間も卵を温め、2ヶ月半の間ヒナを育てる場所であるから、居心地が良いだけでなく殺菌作用があると言われている青葉は、産座の材料にうってつけだ。

巣材運びが頻繁に見られるようになってから1ヶ月足らずで巣は完成する。この間、オーバーハングの下とは言え、巣の上に雪が積もることもある。そんなとき、イヌワシは雪の上に胸を押し付けて除雪車のように巣から雪を押し出したり、積もった雪の上に巣材を運んだりと困惑しながらも巣造りを続けている。

産卵は1月下旬〜2月中旬である。1年のうちで最も寒い時期に産卵するのはなぜだろうか。1つの要因だけではないだろうが、獲物となる野生動物の繁殖時期が大いに関係していることは確かだろう。

ヒナの食欲が最もおう盛になるのは巣立ちの半月から1ヶ月前くらいである。2月の初めに産卵したとすると、5月の初・中旬がいちばん獲物を必要とする期間である。ちょうど多くの野生動物が子育てをしている時期である。警戒心が弱い上に逃げ足の遅い子供たちが多く、野生動物の生息密度が高くなっているときに、イヌワシのヒナの食欲おう盛な時期がぴったりと合っているのだ。

産卵した後、卵を温めるのは主に雌の役割だ。雄は1日に2回くらい雌に代わって抱卵する。雄の抱卵時間は2回合わせても1時間ほどである。この間、雌は近くの木の上で伸びや羽繕いをしてくつろいでいる。雄が持ち帰った獲物があればそれを食べる。

抱卵期間中、雌は狩りに出かけられないので雄が持ち帰る獲物だけが頼りだ。雄は、自分と雌の2羽分の獲物を確保しなければならない。雌が落ち着いて抱卵を続けられるかどうかは、雄が十分な量の獲物を確保できるかどうかにかかっている。

雄の狩りの能力と野生動物の豊富さが繁殖成功の鍵を握っているのだ。

Vol.6 イヌワシ: 天狗伝説

眼光鋭いイヌワシはまさに天狗鷲だ

日本各地には、数多くの天狗伝説が残されている。

天狗は想像上の怪物とされているが、実在するモデルがあるのではないだろうか。鼻は高く突きだし、目は千里眼、1日千里を駆け抜ける、翼を持ち飛行自在で風を起こす大きな羽うちわを持っているとされている。

イヌワシの特徴は、顔の中央部に突出した大きな嘴、1〜2kmも先のノウサギやヤマドリを探しだす非常に発達した視力、10km四方もの広い行動圏を持ち、時速200kmにも達する急降下などのすぐれた飛翔力、翼開長2mの大きな翼と扇型の大きな尾羽など天狗の特徴とぴったりと一致する。

イヌワシは漢字で「狗鷲」と書く。天狗のモデルはイヌワシだったのではないだろうか。

天狗山・天狗岩・天狗平など天狗と名のつく地名は日本全国あちらこちらに見受けられる。人と天狗のつながりは何百年も前から続いている。それがこの20?30年の間に大きく変わろうとしている。

科学技術の発達とともに人間の活動範囲が急激に広くなった。イヌワシの棲む地域でも機械化による大規模で急激な環境の変化が起こっている。天狗と名のつく場所にかつてはイヌワシが棲んでいたと考えられるが、今もイヌワシが棲んでいる場所は数少なくなってしまっている。イヌワシの減少とともに、天狗伝説も語られることが少なくなったのではないだろうか。

イヌワシが信仰の対象となっていたと考えられるふしもある。イヌワシの巣がある岩の上にほこらを立て、神様を祭ってあるところや、イヌワシの巣のある岩の下に、巣のあるところと同じ形に岩を削って石仏を安置してあるところなどがある。この石仏は普段見かける丸顔のふくよかな石仏とは違い、鼻が高く鼻筋が通った彫りの深い顔をしている。まるでイヌワシを擬人化したものであるかのようだ。

今でもお参りに訪れる人があるらしく、小さな踏み分け道がしっかりと付いている。昔は、その岩場が天狗のねぐらとして大切に祭られていたものと僕は想像している。今ではそこに天狗の巣があったことを知る人は誰もいないだろう。野生動物と人間との接点が、現在の日常生活ではほとんど無くなってしまっているのだ。

かつて山里に住む人々は、イヌワシを天狗様と恐れ、あがめて大切に守ってきたのだろう。  自然からの豊かな恵みを大いに利用して生活していた人々は、イヌワシの棲む豊かな自然環境は自分たちが生きていくうえにも必要であることを知っていたに違いない。

しかし、生活様式の近代化とともにイヌワシは身近な存在ではなくなってしまった。イヌワシと人間のかかわりが途切れたかに見えた。ところが、イヌワシがなおざりになったところへ環境問題が浮上した。食物連鎖の上部に位置するイヌワシは、自然環境の豊かさのバロメーターとして再び注目を集めるようになった。

昔はイヌワシも人間も共に生きて来たが、現在はイヌワシか人間かというふうな二者択一を強いられることが多くなっている。未来もやはり、イヌワシも人間もであり続けたいものだ。

Vol.5 営巣地探しの極意?

遠くの稜線に音もなく現れる

誰も知らないイヌワシの新しい営巣地を探すのは楽しい。地形図を広げ、地形から環境を想像する。ここならばイヌワシが生息しているだろうと目星を付けると、もう居ても立ってもいられない。稜線を飛行するイヌワシの姿が目に浮かぶ。

現地に出かけて想像通りの環境に遭遇した時には心が踊る。今にも山の端からイヌワシが姿を現しそうで、稜線から目を離す時間も惜しくなる。

しかし、想像とはまったく違う環境にがく然となることも少なくない。スギ・ヒノキの植林に覆われた山にはイヌワシは生息できない。大きく育ったスギ・ヒノキだけの単純 な植林地は、イヌワシの獲物となる野生動物が少ない上に、びっしりと植えられた木によって林床がまったく見えず、イヌワシが狩り場として利用できない場所なのだ。

数km以上も離れた稜線を肉眼と双眼鏡で探し続ける。飛行する大型の鳥を見つけると、まずイヌワシなのか別の猛禽類なのかを慎重に判断する。点のような小さなシルエットから正確に識別するには、長年の経験が必要だ。

生息確認の次のステップは、営巣地探しである。しかし、誰にでも分かるような営巣地探しの方程式があるわけではない。1ペアのイヌワシの行動範囲は、100km2もの広さにもなるから、イヌワシを発見した地点と営巣地とがまったくかけ離れた場所であることも少なくない。その上、営巣適地はイヌワシの広い行動範囲の中にはいくつも存在する。様々な地域でいくつもの営巣地を発見してきた経験をもとに、営巣に適した地域を選び、遠くからイヌワシの動きを観察する。

巣材や獲物を運ぶ姿を観察できれば申し分ないが、単にイヌワシが飛び回っただけならば、近くに営巣地があるかどうか、大いに惑わされるところだ。営巣地の近くなのか、それとも獲物を探して飛び回っているのか、確実に見分けることはとても難しい。

営巣地を直接見ることができれば話は早いが、イヌワシの営巣地は急峻な渓谷の崖に営巣しているのでアプローチも簡単ではない。イヌワシを確認したその場所で巣材や獲物を運び込むのを期待して観察を続けるか、それともそこには営巣地はないと判断して別の候補地で観察を開始するのか、選択しなければならない。判断を誤ると、営巣地のないところで何日も観察を続けることになってしまう。

野を越え山を越え、ある時は雪上に残された野生動物たちの足跡をたどりながら、またある時は春の木漏れ日を浴び小鳥たちのさえずりを聞きながら雑木林を歩く。イヌワシの観察を楽しみながら営巣地を探索する。

机上では説明できないその場の雰囲気は、野外に身を置くことで感じ取れるものだ。失敗を繰り返しながらも「勘」は鍛えられていく。少しづつ、経験を積むほどに正確な「勘」に近づいていく。

営巣地探しの極意は、長年積み重ねてきた「直感」なのだ。言葉で表すことは不可能だ。

営巣地がほぼ確実に特定されてくれば、急峻な渓谷もなんのその、イヌワシの営巣の邪魔にならないように遠巻きにではあるが、巣が見える場所まで一気に駆け登る。元気に育つヒナの姿があれば気分は最高だ。