朝夕はひんやりとするが、日中はすっかり暖かくなってきた。山は眩いばかりの新緑に覆われた。ちょうどこの時期が野生動物たちの子育ての最盛期だ。子供を連れたカモシカを見るようになるのもこの季節である。
先日(5月21日)、急傾斜の道なき山の中を歩いていた時、どこからかビェェェ・ビェェェという少し物悲しげなヤギに似た声がし始めた。立ち止まって声の方向を探ってみる。かなり近くから聞こえてくるが、声の主はなかなか見つからない。しばらく静かにあたりを見回していると、急斜面をヨロヨロと危なっかしそうに横切って、僕のほうへと向かってくるカモシカの子供が目に入った。
生まれてまもない様子で、へその緒もついている。脚がぐらついて、今にもひっくり返りそうである。こんな急斜面で倒れたら、そのまま谷底まで転げ落ちてしまいそうだ。
ヒヤヒヤしながらどうすることもできずに見ていると、まっすぐに僕の足元までやってきた。母親のカモシカの姿は周辺に見当たらない。子カモシカは僕をすっかり母カモシカと間違えているらしく、僕から離れようとしない。
母カモシカは僕が歩いてきたのにいち早く気づいて、そっと姿を隠したに違いない。母カモシカの大きな体では、その場に隠れて僕をやり過ごすことは到底不可能なので、小さな子カモシカだけを残して立ち去ったのだ。
子カモシカは、母親の目論みどおり静かに姿勢を低くしていれば、僕に見つかることもなかったのだ。子カモシカは、独りぼっちになった寂しさから母親を探して鳴き始め、足音がするほうへと歩いてきてしまったのだ。
僕としても、この子カモシカを元居た場所へ返してやらねばならない。僕の行く先を追いかけてくるこの子カモシカが元居た場所に居着いてくれるだろうか。試行錯誤しているうちに、子カモシカに疲れが見えてきた。少し歩いては座って休むようになった。いまがチャンスと思い、元居たと思われる小さな窪みに誘い、僕は素早くその場を離れて姿を隠した。
案の定、子カモシカはその窪みで休息を始めた。子カモシカは僕がどこへ行ってしまったのか、もう分からない様子である。僕は、しばらく子カモシカの様子を窺い、落ち着いたのを見計らって足音を忍ばせて静かにその場を去った。母カモシカは僕が去ればまもなく子供のもとへ帰ってくるだろう。
この季節、カモシカのみならず各地で様々な動物の子供が母親からはぐれているということで保護されている。子供が本当に独りぼっちになっているという確認ができない場合には、その場にそっと子供を帰しておくほうが無難である。母親は人間を怖れて、少し離れたところから様子を見ていることが多いのだ。